モーツァルト

今年はモーツァルト生誕250周年ということで、いろいろ特集やっているみたいだね。
ここでは小林秀雄のモーツァルトを本に、自分の思い出とともに語りたいと思います。

モーツァルト・無常という事  小林秀雄  新潮文庫

小林秀雄のモーツァルトから文章を抜き出し、感想を書いていきます。ただし、自分は音楽とは無縁の人間なので、間違っているところは多々あるかも知れないので、その点は勘弁を

小林秀雄の本は音楽評論というよりは、筒井康隆の「文学部唯野教授」にも述べているとおり、独自の印象批評で、モーツァルトの姿を借りて好きなことを勝手に述べるという秀雄ワールドというしかないものです。ただし、この鋭さは世の専門家真っ青のもの、なんしろ今からもう50年くらい前のものでも、日本の音楽評論でモーツァルトの真 の姿に肉薄したことがあるのだろうかというものです。

・美は人を沈黙させるとはよく言はれる事だが、この事を徹底して考えている人は、意外にすくない。

う、う、う、格好いいぞ、

・制約も障害もない処で、精神はどうしてその力を試す機会を掴むのか。何処にも困難がなければ、当然進んで困難を発明する必要を覚えるだろう。それが凡才には適わぬ。抵抗物のないところに創造という行為はない。これが、芸術に於ける形式の必然性の意味である。

モーツァルトには、ハイドンから頼まれて作った6曲の弦楽四重奉曲のことをいっているんんだけど、ここではじめてモーツァルトは作る苦しみを知ると。このハイドンセットの最初の曲ケッヘル(Kで普通略字される。)387、第14番ト長調はモーツァルトにとって特別な曲だね。これも聴いたら分かる。このセットの中には「狩り」「不協和音」など有名な曲があり、全て傑作、続けて聴くと一番てっとっり早いモーツァルト入門になるのではないかな。

映画「アマデウス」の中では、サリエリがまだ発表だれていない曲のスコアを見て、無造作に書き直しの無いのを見て、その天才性をみて嫉妬する場面があるけど、モーツァルトといえども人の子、影でしっかり努力していたということだね。
モーツァルトの曲はケッヘルが400番台になると、曲想が深くなっていくのが分かるよ。早熟の天才だったけど、進化もして行ったことが

・確かに、モーツァルトのかなしさは疾走する。涙はおいつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。

この「かなしさは疾走する。」というのは、一時もの凄く有名になった言葉で、素晴らしい名文だね。これは小林秀雄がK516弦楽五重奉曲ト短調のアレグロを聴いた感想なんだけど、自分は個人的にはそのように思わなかったけど。ただ、この本がモーツァルトの短調の曲に目をつけたのは鋭い指摘だね
映画「アマデウス」では、最初の導入の曲がK183交響曲第25番ト短調、この曲はモーツァルトの「疾風 怒濤」的表現された激しい曲、そもそもモーツァルトの交響曲は41曲あるけど、短調は2曲だけ、エンディングのピアノ協奏曲第20番ニ短調も27曲ある中の2曲のうちの一つ、短調のモーツァルトは特別な意味があるのね

・誰にも自分の眼を通してしか人生を見やしない。自分をいっぺんも疑ったり侮蔑したりした事のない人に、どうして人生を疑ったり侮蔑したりする事が出来ただろうか、

名文だなあ。

・彼の歌劇は器楽的である。更に言えば、彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。彼の室内楽でヴァイオリンとヴィオラとが対話する様に、「フィガロ」のスザンナが演技しない時には、ヴァイオリンが代わりに歌うのである。

二十数年前、NHKFMの伝説の名番組に「モーツァルト愛とその生涯」というのがあった。吉田秀和さんが解説して、モーツァルトの全作品を日曜日に週一回朝9時から一時間その生涯を辿りながら放送していた。吉田さんの素晴らしい解説、その曲、曲に演奏家をセレクトするセンスの素晴らしさは、筆舌に尽くせないくらいだった。この放送のエンディングに使われていたのが、「フィガロの結婚」の第3幕への間奏曲、歌のパートがいつの間にか、弦楽だけになっており、その部分を使っていた。これは、もちろん小林秀雄が言っているまさしくその場面を。
ここを、オペラの場面を通して見るとよく分かるけど、すごく楽しいけど、どこか寂しげな曲想を感じさせるこの曲が流れるなかで、舞台では、あわただしくセットが代わっていく。そう走馬燈のように、それが人生であるかのように、自分はこの「フィガロの結婚」のこの場面にさしかかると、いつも甘酸っぱい気持ちになるねえ。この甘酸っぱい感じは恋する感じに近いかな、ただ甘いだけでなく、どこか酸っぱいあの感じ。…………………いゃ〜〜んおっちゃんなのに恥ずかしいなんということ言うんだ。ごめんなさい

非凡さは際だっているね。いろんな作曲家はいるけどモーツァルトは特別だね。

吉田秀和さんの番組はその後ベートーベン、シューベルト、ブラームスと続き、クラシックファンの拡大に多大の貢献したね。

・モーツァルトは、歩き方の達人であった。現代の芸術家には、殆ど信じられない位の達人であった。これは、彼の天賦と結んだ深刻な音楽的教養の贈物だったのであるが、彼の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。

ここも名文、なんで歩き方なんだ、これはどういうことだ。

・何故、死は最上の友なのか。死が一切の終わりである生を抜け出て、彼は、死が生を照らし出すもう一つの世界からものを言う。ここで語っているのは、もはやモーツァルトという人間ではなく、寧ろ音楽という霊ではあるまいか。

・僕等の人生は過ぎて行く。だが、何に対し過ぎて行くと言うのか。過ぎて行く者に、過ぎて行く者が見えようか。生は、果たして生を知るであろうか。恐らくモーツァルトは正しい。彼の言う方が正しい。しかし、彼が神である理由が何処にあろう。やがて、音楽の霊は、彼を食い殺すだろう。明らかな事である。

サントリーのCMに使われたマーラーの曲について

自分が考えるサントリーの昭和50年代の名CMは3つあって、一つは、雨の中を子犬が街を走り抜けるCM、ダバダバダバダという音楽とともに物凄い有名。30代以上ならほとんどの人が、ああ、あのCMねと分かるくらいにね。

もう一つは松田聖子が歌っているバックミュージックを背景に、、アニメのペンギンが出てくるCM。何しろ松田聖子の人気は凄かったから、これも一世風靡したね。

最後は、今日語りたいもので、砂漠を旅するフランスの象徴詩人アルチュール・ランボー
のCM。これは、上の2つに較べ、知る人ぞ知るCMで、ハイセンスだったね。

サーカスの道化とともにランボーが歩いているだけなんだけど、バックにかかっていた音楽が独創的。グスタフ・マーラーの声楽付き交響曲「大地の歌」の中の第三楽章「青春について」を使っていたから。当時まだ、マーラーは一般的じゃなかったけど、この曲をきっかけにか、ひそかなブームになった。

この「大地の歌」は中国の李白などの詩を脚色して声楽をつけた交響曲 なんだけど、これが、西洋人のけったいなオリエント趣味の、はなはだグロテスクな曲になっている。でもこれが、もの凄く面白い。

第一楽章「大地の悲しみに寄せる酒の歌」(李白の詩が原作)

第二楽章「秋の寂しさ」(原作は分からない)

第三楽章「青春について」(李白の詩が原作)

第四楽章「美について」(李白の詩が原作)

第五楽章「春に酔える者」(李白の詩が原作)

第六楽章「告別」(王維の詩が原作)

この楽章と題名を書いただけでも、面白そうでしょ。奇数がテノール(男性高音)、偶数(女性低音)の独唱になっている。

李白の詩をもとに書かれているものが多いので、酒ばかり飲んでいる曲が多いね。CMで使われたのはこの交響曲の中でも陽気な曲だったね。酒を楽しく飲もうということかな。まあ洋酒会社のCMなんだからこれは普通かな。

自分がつっこみを入れたいのは、第四楽章と第六楽章、

第四の曲想は、池のほとりに乙女たちが花を摘んでいる最中、近くを見目麗しい貴公子が通りすぎていくシーンとのことらしいのですが、

貴公子が通り過ぎ去る場面にかかる音楽が、チンドン屋みたいに登場して、これがくどいのだ。これが憧れを表現する音楽なのかな?可笑しい感性だな。

そして最後の第六楽章の告別、これは王維の詩で、高校の漢文でも習うくらい有名な詩を脚色したもので、この交響曲の長さは60分くらいのうち30分くらいがこの楽章にかけられている。

王維の短い詩をえんえんと演奏する。曲想は故郷に隠棲しようとする友達との別れを曲にしている。

日本人なら別れる時は、やあそれではと軽やかに別れるのだけど、またこの王維の詩もさらっとしたものなんだけど、このマーラーの曲はくどいのだ。とことん友との別離の哀切さを歌い上げる。これはまた秀逸なんだけど。

最後になるにつけ、エーリッヒ、エーリッヒ、日本語訳で永遠を連呼する。序序に言葉が小さくなっていくのだけど。何回も連呼すれば、日本人としては有情とうものが浮かぶとは思えないのだけど、西洋人はゴリ押しするんだね。で何か分からない味わいをだしてしまうから面白いね。でも、全体的に見れば中国的になっているのだね。ここは特筆すべきだね。

トゥーランドット

オリンピックに行っていた選手も帰ってきたみたいですね。
荒川さんが最高の人気だね。
あっちこっちのテレビ局でよく見ますね。
やはり、まあ仕方ないですね。
オリンピック中にこのブログ立ち上げていたら、いっぱい書くことがあったのに終わってから、オリンピックについて書いても、気の抜けたコーラみたいですね。

それでも少し書きたいと思います。
荒川さんがフリー演技のときに使ったトゥーランドット、今密かにブームになっているみたいですね。
この美しいオペラは、実は中国の話というのを、テレビ局とかでは、扱っていないけど、分かっているのかな。
イタリアでのオリンピックなので、プルシェンコの「トスカ」、安藤さんの「蝶々夫人」など、イタリアの作曲家プッチーニの曲がよく使われたけど、どこか全部曲調が似ていたね。
こういったある種の、演歌でいうところの、こぶしがあるような曲は、曲に合わせて滑るのは、難しいと思うのたけど、プルシェンコ、荒川さんは見事に滑ったね。
細かい採点基準の点をいかに取るかの話より、このことの方が凄いことかも知れないね。

ついでに、自分が調べたトゥーランドットの粗筋を書いておこう。

話は、美貌だが我が儘なトゥーランドット姫が、3つの謎を解けば、求婚に応じるという布告をだす。姫の美貌に憧れる隣国の王子たちは、この布告に応じるが謎が解けず首を刎ねられる。
国をおわれ旅をする盲目の老人ダッタン王ティムールとその奴隷だった若い娘リュー、その両者を道端で助けたこれまた何故か旅するティムールの息子カラフ、ここで両者が親子再会を果たす。3人は謎を解けなかった王子の首切り場で、トゥーランドット姫を見る。その美しさに魅了されたカラフは父親、リューの反対にもかかわらず姫に求婚しようとする。
カラフは3つの謎を次々に解いてしまう。皇帝は喜んだが、姫はなんとか結婚を避けようとする。その態度を見たカラフは、逆に明日の朝まで自分の名を答えれば、結婚を破棄し自分の首を差しだそうと提案する。
宮廷の大臣ピン、ポン、パンの3人はカラフの機嫌をとることで口を割らせようとするが
らせようとするができなかった。すると町の人たちがティムールとリューの二人がカラフと一緒にいたと言うので、捕らえて拷問のかけ口を割らせようとする。二人は口を割らず、リューは姫がきっとカラフを愛するようになると暗示して短剣で自殺してしまう。姫はその姿に感銘を受け、すかさずカラフは姫を抱いて口づけをする。カラフは姫が自分のものになったと確信し、自分の名を姫に告げる。
翌日、姫は皇帝にカラフの名が分かったと告げ、みんなの前で発表すると宣言する。息を呑んで人々、青ざめるカラフの前で、姫は「その人の名前は愛です。」と告げる。一同皇帝、二人を讃えるなか閉幕する

以上が粗筋なんだけど、訳の分からない話だね。当時の西洋人が考えていた東洋人とは、ほとんど、意味不明な人たちだったのだね。
今なら、時代考証で、舞台セットもそれらしく作ったいるけど、初演時などどんなセットでしたのか想像できないね。 何しろ大臣の名前が、ピン ポン パンだからね
でも、このオペラの旋律の美しさは特筆すべきものだね。
この美しい曲が日本人にとって馴染みのものになったのも、荒川さんの功績だね。
トスカ、ジャンニ・スキッキ、ラ・ボエームも馴染みになって欲しいね。