マリア・テレジアの肖像画

マリア・テレジアの若い時の肖像画をネットで取り込もうと色々探したのですが、

年取って二重顎になったものしか見つからなかったので、仕方ないので、江村洋先生の本の表紙をデジカメで写して貼りました。

なんでこんな歴史的にも重要な絵がみつからないのだろうか、

マリア・テレジア帝、言わずと知れたフランス革命の悲劇の王妃マリー・アントワネットのお母さんだね。18世紀の啓蒙君主、16人も子供をもうけた女傑。名門ハプスブルク家をしょって立ち、宿敵プロイセンのフリードリッヒ二世との対決は一つの歴史の大きなハイライトだね。

まあ、歴史的事実については、江村先生の本を読めばよく分かるし、面白い。この人の毅然としながらも、どことない女性的な優しさも分かると思うね。それに較べ、フリードリッヒ二世の性格の悪さ、汚さはなんやねん。まあ歴史は強いものが正しいみたいなところもあるから仕方がないところはあるけど。

で、この肖像画を自分はよく見るのだけど、ほとんど女性の美として考えるなら、欠点がないような気がするのだけど、もちろん実物を肖像画家が理想的に描いたものだろうけど。

この人のりりしさ、どこか優しい面影、そして幸せな人生を生きているという自信、

美が力なら、この絵はオーストリアの人々に多大の勇気を昔から与え続けてきたんだと思うね。

姿、形が端麗だけが、美女の要件ではなく、教養、内面の美しさもなければ美というものにならないのかなあ。自分はいろいろ勝手に考えているんだけど。

ニセモノ師たち 中島誠之助 講談社

この本は、あの「何でも鑑定団」の中島先生の本です。中島先生の本をいろいろ読んだなかで、自分にとって一番面白かった。それに商売をしようとする人たちにとっては、役立つ知識が多いと思うよ。

中島先生は、いろんな出版社から本を出していて、同じ人が書いたと思えないほど、ばらばら、きっと編集の人の力量に左右されるような本の作りをしているのだね。講談社は老舗だけあって、この本はいいと思う。

内容は、偽物とは何か偽物に騙される人とはどういう人か騙されないためにはどうするのかについて書いている本です。

まず偽物とは何か、これは本物の定義は次のごとくで

・必要性のあるもの

・美意識を感じて創作したもの

これらの定義に当てはまらないものが偽物

そして本物と偽物は決して交わらない。

次に、偽物に騙される人とはどういう人かは

これは騙される素人の三条件として

1、欲が深い

2、出発点のレベルが低い

3、適度に小金があり、教養もあること

「帝国軍人と政治家の蔵にはろくなものがない」 これはバブル紳士淑女に似ている。つまり、このような人たちは、深遠な審美眼を必要とする品よりも、きらめくような見てくれの美しさや、いかにも高額そうに見えるものを買うからだと言っているね。

それと騙されるタイプとして、帰るべきところが一応安泰で、社会生活はエリート層に属し、善人であるが多少ケチであることらしい。

騙されないためにはどうするのかについては、これはどうしたら良いものが買えるかで次ぎの三点

1、自分の美意識をしっかり持って、欲にとらわれないこと。

2、骨董品は、高いものだということを理解すること。

3、出発点は高いところに置く。

他に、値段の高い安いは、商人が決めることではなくて、自分自身が決める事であり、目利きで人柄のよい商人に出会い、キャッシュで即決する。そして相手を信用すること。この方法が客も商人も向上させ、やがて優れたコレクションができるといとらしい。

まあ実生活でも役立つこと満載の本だね。

上記の騙されるタイプ、生活が裕福で、社会的にはエリート層に属し、善人であるが、多少ケチといところは傑作だね。

よく見ると、「何でも鑑定団」に出てくる人など見てね。中島先生なんかは、ははーんと人を見て大体どんなものなのか分かるのだろうなあ。

よい人だけど、ちょっとケチと言う人、いるよねえ。そういった人は、内外の意識が強く、そのグループに属している人には優しいけど、属していない人には冷たいというような感じかな。

骨董をみることは、人間を観察することにも繋がるのだね。怖いよねえ。

恋愛少女漫画家

恋愛少女漫画家 一条ゆかり  集英社be文庫

この一条さんの本は、自分の半生を書いた本だけど、その生き方はとにかくパワフルで鯛焼きのしっぽまで餡が入っていえうような人生だね。男はついていけないね、

昔「正しい恋愛のススメ」を読んだとき、こんな男どこにいるんだ。と思っていて、もしかしてサイコセラピストも日常的にもできる頭脳明晰、容姿端麗な超人は自分は知らないけどいるのかなあと漠然と思ったりしていたけど、この本を読んで、一条さん本人が「全部創作です。モデル無し」と断言していたので、少し安心した。まあ目指そうとしても、そのベクトルすら分からないような登場人物だったからねえ。

自分のやりたいことにどん欲な姿勢はただ感心するばかりだね。足らないことに対する努力が、長く一線で現役で若い作家と切磋琢磨している秘訣だね。

漫画家にとって一番大切なのが、感性だと言いきり、それを持続するためには全体のレベルをあげる。そしてその為の努力する。絶えず社会が何を求めるかアンテナを張りどん欲に吸収する。場合によって、旦那が必要じゃないと感じたらさっさと離婚し、15才か20才年下と恋愛する。多くの女性がこのような考え方をすれば、むーこれは完全におじさん種族は絶滅種になっていくのだろうね、

一条さんが彼氏に求める条件は、これから本当の意味でもてることができる男の条件かもしれないねえ。自分はなりたくてももう無理だけど。

1、ものを作る人であること

2、マネージャーみたいな人

3、私にものを教えてくれる人

他に、基本的な生活レベルをあげないで、普通ならカットするところにお金をかけると言い、本質を変えるのではなく、コーティングを変えようと。こんなこと「葉隠」の思想そのものだね。

一人ならじ

一人ならじ  山本周五郎  新潮文庫        
これは、周五郎珠玉の短編で、好きな人が多いのでは、

話は、あるもののふ(武士のこと)が、自分の足を咄嗟の判断で、楔にして片足を失ってしまうのと引き替えに、味方の勝利に貢献した。しかしその戦場には、近くに丸太が落ちていたのに、無駄なことをしたものだと、世間のものに罵られ、婚約者の父からは、婚約解消言い渡されてしまった。主人公の大助は淡々とした態度をとり、密かに義足を作り、復帰を果たそうと備えて世間の評判には気にしなかった。

発表は、昭和19年9月、太平洋戦争真っ最中、当時の世相に影響された作品と言えるけど、そんなものを除いても、感動的な話、

こんな美しい人は、いないなあ、

戦争は、いろいろ悲劇を生むが、人のこころのありかたは、純粋になるのだなあ、死を意識して今を懸命に生きる、昔日本にあった武士道、侍、武士というよりも もののふと言う方が似合っている人たち、後世あの戦争が侵略だからだめだ、他いろいろ言う人がいうけど、覚悟をし、大切なもののために戦った人は、もっと評価されるべきだ。

感想がごっちゃになってしまったけど、周五郎の執筆態度直木賞拒否に明らかのように、名もない庶民のために、一生懸命生きるもののための作品だから、普通に感動的な作品が多いのだなあ 

この作品はもっと読んで欲しいものだね

田中一村の鶏の絵について

何でも鑑定団の中島先生が絶賛していた一村の絵画展が
我が県で、4、5年前に巡回で来ていたので、見に行きました。

一村の絵は、奄美黒糖焼酎「里の曙」のラベルに使われており、アダンやソテツの木や南方の鳥などをモチーフに描かれた絵は、文句なく素晴らしく、観る者を圧倒していました。

ここには、他の追随を許さない独自の世界が展開されていました。

美術館を訪れた人々は、あばさんが圧倒的に多かったのにかかわらず
静かに絵を見ていました。普段、美術になじみがない者に対しても、強く訴えられるものが、一村には確かにあるのでしょうね。

一村の画家人生の、それぞれの時期の絵がみられました。

一村が生前不遇だったので、絵が余り売れず、大多数が奄美に残っていたのが、幸運だったのでしょう。
画家の人生を、現在、奄美の美術館で辿れて、見られるようになっているようですしね。
このことは、本当に一村の絵が好きな者には、幸運だと思いますね。


僕は、この展覧会の中で、奄美に行く前の時代に描かれた鶏の絵に強い印象を受けた。

それは、凄く男前な表情を持ち、孤独な面影があったが、全然鶏らしくない容貌は、見る人に強く訴えるものがあるが、何かが足りない絵だと思った。
これは、きっと不遇な一村を投影したものに違いないと思った

そこで、ふと考えたのは、こんなの鶏ではないのだろうということだった。
鶏が、鶏らしくある必要はないけど、鶏に見えないものは、鶏と呼べないのではないかと、
サルトルの有名な言葉「実存は本質に先立つ」に沿って考えれば、
鶏が鶏らしく見えないのは、やはりおかしい?などなど、考えて、心の中でしっくりいかないのに気づいた。

観る者に違和感を与える絵というものは、やはり未完成なのではないかな、この絵に大きな謎があるということは、考慮すべきだが、一村の中の欠けたものを示しているに違いないと思った。

そんなことを、lかれこれ考えた後、最晩年の奄美での絵を見てみると、このような消化できずにいたものも、奄美での生活の中で序序に解消していき、あの素晴らしい絵をたくさん生み出したのだろうと言うことが分かる気がした。

奄美の絵の中の鳥たちは、普通にどこででもいる鳥たちで、特別な人格は投影されていず、あくまで鳥らしい
これは、先ほどのサルトルの言葉では、現実存在(実存)は、本質に先立つ
この言葉通りになっている。ように思った。

そこには、違和感のない、安らぎの世界があったと感じた。                                

平知盛

去年の大河ドラマ義経だったね。
今回は知盛と義経の違いについてと、この中世の人たちの世界観について書いてみたいと思います。

義経が何故あそこまで追いつめられたのかは、直接的には梶原景時を多くの兵士の面前で痛罵したことで、この後恨みを買い頼朝の讒言されたことであるが、それよりも重要だと考えるのは自分の運命に対し無自覚であったことだと思う。当時は貴族の世から武士の世へと凄まじい価値観の変動があったわけで、高い地位のものから庶民まで、人間の力でどうしようもない運命というものに対する自覚があったように思うのね。

義経は戦争の達人だったが、その驕慢さには無自覚だった。このことが平家物話の背景に現れる世界観では没落せざる得ないのだろうね。平清盛源義仲と同じ世界観で運命に翻弄されて衰えていくしね。

でも間違ってはいけないのは、だから人間的に魅力があったのだと、壇ノ浦の合戦後上手に立ち回って、どこぞやの守護に頼朝に命ぜられた義経ならば世代を越えたヒーローにならないしね。

一方平知盛は、どうしようもない運命の力を自覚した人だった。一の谷の合戦のとき我が子が身代わりになり脱出できたとき、正直に自分の命は惜しいものだなあ。人は自分のことを卑怯者だとみるだろうなあ、恥ずかしいことだ。などと、全然武士らしくないことを言い。

壇ノ浦では、いかに勇士でも運命が尽きれば力及ばないが、この期におよんで命を惜しむな、味方ども。なんて言って自分も勇敢に戦い。敗戦が決定的になると、船の中の女房に戦の状況を聞かれたとき、からから笑ってもうすぐ東男が見られるよ。などとのたまい。最後まで奮闘する教経に向かい雑兵など相手にしても意味ないだろ、などとたきつけ(、この後猛然と教経は義経目指して突進する。ここが有名な八艘飛びの場面、)そのような平家一門の行く末を見届けると、見るべきものは見た,今は自害しよう。と言って海に飛び込んだのが最後だった。

この散歩するかのような軽やかな最後の場面はなんだと思う人もいるかも知れないけどけど、ここには運命に翻弄されながらも人間的に悩み苦しんだ末の真の勇者の姿を感じたのは、古来多かったのではないか。

力が強い。勇敢だというだけでは、勇者とは言えない。悩み苦しみ運命に抗しながらもその運命を自覚し受け入れる。その姿は美しい。こういったことをこの平家物語は教えてくれている気がするね。

平家物語は魅力的人物がてんこ盛りなので繰り返しよんでも楽しいし、教えられることの多い本だね。それに、なんか物凄く日本的な話だし、どこがいいのかを考えることが、同時に日本の良さを考えることにもつながるしね。

芭蕉の美しい挿話

芭蕉俳諧(上)  暉峻康隆  中公親書

この本の中で次ぎようなところがあります。

芭蕉は天和三年(1683)40歳のとき「虚栗」出版した。この蕉門最初の撰集は漢詩調で当時斬新なものであった

あられきくやこの身はもとの古柏

語釈は、戸外の柏の葉を打つあられの音をじっと聞いていると、草庵は新しくなっても我が身は、古柏同然、何の変わりばえしないことにを寂しく思われるなあ。

天和二年一二月江戸で大火事があった。そこで焼け出され疎開し、また帰ってきて庭の柏を見て読んだ句

脱線するけど、このときの火事が八百屋お七が吉三郎に出会うもとになった火事らしい。後に気が狂ったお七は三年後放火する。この話は西鶴好色五人女に取り上げられ年配の人には有名だけど

話を元に戻すと、「虚栗」で談林調の卑俗性を克服するという革新がそれなりにできたけど、それはまだ観念的なものでもの足りなく芭蕉は感じていた。だから、上の句のようにに自分はまだ中身は古柏に過ぎないと自覚していた。

ここからが本題、芭蕉は著名な仏頂和尚が参禅したとき聞き。会って和尚に聞いてみた、俳句革新の為新しいことをやったが、外見は新しくなったが中身は変わらない。どうすれば変われるのかと。和尚の答えは、そんな狂って俳諧にのめり込むのは妄執だ。自然を愛するのも、女性を愛するのも同じ妄執なんだと。だから、俳諧への妄執は捨てるべきだと

芭蕉はそこで考えた。俳諧への妄執を捨てない限り本当の意味でこころは開けないと言われても、自分には俳諧しかないんじゃないかと。さまざまな欲望は捨てても、俳諧だけしかないんだと。芭蕉はそれを貫き通す以外に解放される方法はないと自覚したのだった。

そして芭蕉は旅に出た。この旅は野ざらし紀行、ここでさまざまな出来事、人に出会い大きく芭蕉俳諧は発展していく。ということらしい